目  次
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
仲達再び立つ
街亭
空城の計
葫芦谷の計
死せる孔明生ける仲達を走らす
遼東討伐
仲達のボケ老人

司馬懿仲達
姓は司馬、名は懿、字は仲達。河内郡温県(現在の河南省)の人。曹魏四代に仕えるが、二四九年にクーデターを起こし、晋朝創建の礎を築く。蜀の丞相諸葛亮(字は孔明)とは二度対戦しており、その時の諺「死せる孔明、生ける仲達を走らす」は有名。

 司馬懿の生まれた当時の河内の司馬氏は地方の名門で、祖父 [人雋] は潁川太守、父防は京兆尹(長安とその周辺の民政長官)にまでなった。司馬防の子は兄弟八人とも出来がよく、字に「達」の字を含んでいたので「八達」と呼ばれていた。その次男が仲達である。

 二〇一年、二三歳で郡の役人になったが、荀 [或×彡] の推薦により曹操に辟召された。この時は断ったが二〇八年曹操が丞相へ位を進め改めて辟召し、今度は司馬懿もこれに応じた。曹操のもとでの彼の主な役割は、曹操の参謀役と曹丕の世話役であった。二一五年張魯討伐戦に従軍した司馬懿は漢中平定後、続けて蜀もとるべきと進言しているが、曹操は、「望蜀」の故事を引き、聴かなかった。司馬懿もまだ若かった。

 二二〇年、曹操が歿し文帝曹丕が即位してからは尚書台の要職を歴任、二二五年撫軍大将軍となり、翌年文帝臨終の際、曹真・陳羣・曹休らとともに曹叡を補佐するよう遺詔を受ける。

 明帝曹叡の即位後、驃騎将軍となった司馬懿は荊州・豫州方面の軍事権を全面的に委ねられる。二二七年一二月、諸葛亮の仕掛けた新城郡太守孟達の反乱に即応、出鎮先の宛城から孟達のいる上庸城まで約七二〇kmを八日で踏破、直ちに攻撃を開始し一六日目でこれを落城させた。

 二三一年、蜀漢の第四次北伐で、大将軍を拝された司馬懿は長安に出鎮し、諸葛亮と対峙する。蜀軍の食糧が尽き諸葛亮は退却するが、その追撃戦において、魏の百戦錬磨の将、張 [合邑] が流れ矢に当たって戦死している。張 [合邑] と司馬懿は度々意見が合わなかったことが知られている。

 諸葛亮の度重なる侵攻ををよく防いだ司馬懿は、大将軍から太尉に位を進め、二三八年遼東の公孫淵の討伐では大勝利を納めるなど、赫赫たる軍功を重ねる。その凱旋の途、明帝が危篤の床につき、燕王曹宇、曹真の子曹爽らとともに幼帝輔政の後事を託される。明帝崩御の後は、大将軍曹爽の専横が始まる。

 曹爽一派の策略で暫く実権から遠ざかっていた司馬懿だが、病気ですっかり衰えた様子を見せて相手を油断させ、二四九年、クーデターを決行、曹爽一派を粛清し、朝廷の全権を掌握した。

 二五一年、寿春での王凌の反乱の事後処理を終え、洛陽に帰るが、その六月に病の床につき八月五日、逝去。七三歳だった。

 その子司馬師・司馬昭はともに出来がよく、その「志」を着実に実現していき、二六五年、孫の司馬炎が晋王朝を創建するに至る。司馬懿は「宣皇帝」と追尊される。